課金論争

ソーシャルゲームが2000年代後半に登場して以来、その市場規模は安定的な成長を続けている。

フリーミアムというビジネスモデルが用いられ、高度な機能や特別な機能を手にするためには料金がかかる。
「課金」という言葉が広まったのもソーシャルゲームが流行りの影響が大きいだろう。

SNSを覗いていると絶えず出てくるのが無課金・課金論争である。今回は、この論争について1石を投じたいと思う。

今回、論争として挙げるのは、無課金のゲームプレイヤーと課金したゲームプレイヤーの論争であり、外部の人間は登場しないと断っておく。

無課金プレイヤーは次のような主張を掲げる。
「ゲームは趣味であるからお金を投入することはしない」
良い悪いどちらともいえないが、これに関しては正しい考えであるといえる。

しかし、時に次のように主張する無課金論者がいる。
「ゲームは趣味であるからお金を投入することはおかしい」

また、無課金であることを誇り、課金プレイヤーはあたかも劣っているかのように発言することも見受けられる。

確かに、データのような実在しない水物を買うという行為自体にはゲームに関わらず様々な論争を引き起こしてきた。
しかし今回は課金することの是非自体ではなく、時間的側面から見た課金することの合理的な理由を説明し、先ほどの主張の危うさを指摘したい。

そもそも、ソーシャルゲームにおいての課金とはどのようなものか。
様々な対価が与えられるがフリーミアムの考えに沿ってみれば課金によってプレイヤーの能力を上げたり、容姿をカスタマイズすることであろう。

当たり前だが、課金することによって不利益を被ることはない。
では、そういった機能は無課金プレイヤーには味わえないかというとそうではなく。例外は存在するが、無課金であろうと時間をかけてアイテムを集めることで確率は低いがガチャ機能で引くことができる。おそらく無課金を誇る人間は、アイテムを集め、低確率のガチャを引き当てることの達成感や根気強さに自信を持っているのだろうが、これは自己満足に過ぎず、他者にその考えを押し付けることに妥当性はない。

なぜなら無課金者は課金者が払うお金の代わりに時間という対価を支払っているからである。

高価アイテムを手にするために1時間かかるとすれば、その一方で課金者は1時間アルバイトでもすれば得たお金で課金ができる。

たいていの場合、課金金額でアイテムを手に入れるのみならずお釣りまで出るだろう。

もちろん、労働による体力消費や精神的な理由も存在するだろうが、割の良い方を選ぶのは人間として当然のことであろう。

また労働→課金の流れでお金が回るため
経済的な観点から優位であろう。


もちろんポリシーとして無課金で行うことに価値があると考えるのは勝手にしていただきたいが、他人に考えを押し付けたり、非難することは時間的観点からみれば主張に合理性が無いため避けるべきだろう。なぜなら時間には価値があるからであることを考えてないからである。


最後に課金者の言葉を借りて終わりたい。

「まだゲームなんかに時間をかけてるの?」

質問者は3パターンに分けられる

教育関係の仕事を取り組んでいるため、学問に対して質問を受けることが多々ある。

質問は学び方の成熟していない未成年から受けているのだが、その質問パターンは3つに分けられ、また学力と質問力には興味深い関係があると感じる。


①丸投げタイプ
分からないことは質問するように促しているが、それを受けてとりあえずの質問するのが丸投げタイプの特徴。
この場合、回答は最も難しい。
始めに質問者がどの程度の理解を得ていて、それに応じてどのような回答をすべきなのか決める。
この作業ははっきり言って無駄である。

逆に質問者に対し問いかけながら理解度を探る。「今日はどうされました?」から始まる医者と患者のやり取りである。

確かに質問者に取ってしてみればすごい丁寧な回答が得られ、また基礎的なところからの確認は復習になり有意義だと感じられる。

しかしながら、自らの理解度を確認するために他者の存在は必要ない。
また、自力で実力を推し量れないのでは学力を伸ばすのは難しい。


②質問中に道筋を辿るタイプ

①タイプにどうやって解くのがいいか?と尋ね質問回数を重ねると自然と②のタイプになる。
自力で考えを辿り分からない所まで説明してくれる。一往復のコミュニケーションで鋭い回答ができるため回答者としての労力はそこまでない。説明の途中で閃くこともある。
せいぜいやることは相槌を打ち相手の道筋を見守る事だ。

だが、カウンセリングのような関係は最終目標ではない。

無知の知タイプ

達成は困難であるものの理想としてはこのレベルまで高めてほしい。

このタイプは分からないことが明確に分かり、あとは何を利用するのかが明確に質問できる。
ここまで来ると質問の質は非常に高い。また質問に至るまでに自己解決に至る事もあるし、より早く簡単な解法を探るために質問してくれることもある。
その学習意欲は素晴らしいし、回答者側の学びにもなる。



当然ながら①よりも②、②よりも③のほうが学力は高い傾向にある。だが多くの質問者は①に留まりがちだ。
私が教育者、回答者側として日々感じることであるが、思えば日常生活の中でもこういったことはあるだろう。

インターネットが普及した今日、誰もが簡単に質問者になれる。そういった場で闇雲な検索をするのではなく、適切な検索が必要であろう。

Google検索エンジンは優れているがこちらの知識レベルを探るレベルにはまだ達していない。
だからこそ、自力で知識を推し量り質問の質を高めることが膨大な知識の海に溺れないコツなのである。

そういった意味でレベルの高い質問者には希望の眼差しを向け、良い回答ができるように励んでいる。

電卓と私

先日、私の電卓を知り合いに馬鹿にされた。

私は5000円の電卓を愛用しているが、彼は電卓に対して数千円かけることを異常だと認識したらしい。

いやいやそんなことはない。
必要最低限の機能を揃え、タッチ反応速度が早く、デザインやブランドが...ほにゃほにゃ

など彼に電卓の素晴らしさをとうとうと説いてやろうと思った。しかし、スマホに内蔵された電卓機能に満足している人間に力説するのは、傍から見れば一般人に知識をひけらかすオタクのように見える。
なので、衝動を抑えてただ一言、使いやすいんだよ。と告げてあしらった。

電卓は耐用年数が長いので高いものを買ったほうがよい。長く使えば使うほど年あたりの費用は安くなる。だからロングスパンで見れば決して高い買い物ではないのだ。

と、値段の正当性を説明したが、値段はさして重要ではない。

私は生涯をこの電卓と過ごしたいと思っている。電卓で食を繋ぎ、艱難辛苦を共に乗り越えていくのだ。

彼にはこの重みは分かるまい。私はこの電卓と出会い、慎重にアプローチをかけ、丁寧に交際を重ねここまで過ごしてきたのだ...まだ2年目だけど。


誰にだって大切にしているモノはある。それを安易にからかうのは避けるべきだと私は思う。

あなたが使う駅ってどんなところ?

「〇〇駅?なんもないよ」

私は冗談交じりにこの一言を告げる連中が嫌いだ。

彼らが"なんもない"という場所には実際には何もないわけではない。
私はどんな場所にもその土地特有の面白さがあると思う。それに、特色だけで無くその人だけが持つエピソードが必ず転がっているはずだからだ。
それが聞きたいから、質問をするのだ。

しかし、"なんもない"と断言されるとぶっきらぼうにシャッターを閉じ、この会話は終わらせようと言われているように感じてしまう。

それならそれで良いのだ。
触れてはいけない話題だったのだろう。

だが、"なんもない"が相手を楽しませる一言だと考え、ここ笑い所ですと言わんばかりのトーンで発する連中には腹が立つ。

"なんもない"を伝えて何が起こるのか。
そうですか。何もないのですか。おわり。

"なんもない"と告げた人間はその後別の話題を切り出す。

相手が知りたいことを答えず話したいことを話す。いわゆる喋るコミュ障の一例だろう。

話を切られていい気持ちにはならない。
その後の話題も楽しみづらい。

以前私は"なんもない"と発した時、間髪いれずに
何も無いわけないでしょう?と聞いたことがある。

すると駅があって...公園が近くにあって...と相手は情景を想像し始めた。

公園があるのですか?
場所を繰り返すと、そういえばあんな事があった!とエピソードを話してくれた。その後会話は弾み、彼の面白い習慣も知ることが出来た。

相手に自分を伝えたい時、地元トークほど優れた話題はない。
その人の日々の行動や習慣、長く住んでいるからこそ知っていること。など
話そうと思えば次々にエピソードが思い浮かぶ。

ぜひとも、土地について聞かれた時は"なんもない"なんて返さないでほしい。
あなたが話したい話題以上に肥沃な土壌がそこにはあるのだから。

寒さと異常

今年は...いやこの冬は異様に寒い。

ニュースでしきりに異常な寒さといわれ

ここぞとばかりに『今年必須の暖房家電』『冬を乗り切る防寒具』が売り出される。

 

私はテレビと窓の景色を交互に見比べ明日の出立時刻を考えていた。

 

そうするうちにある欲望が膨らみだした。

寒い夜に暖かい部屋でおでんを食べたいという欲求だ。

帰路にコンビニによって寒さを我慢して家でのんびり食べる。

こんな幸せなことはない。

 

気づけば暖かい部屋を抜け出し近所のコンビニを目指していた。

おかしな話である。

わざわざ暖を投げ出し寒さに身を当てるのだ。暖を獲得する喜びを得るために…

 

異常な気温に駆られた異常な行動。

だが、店に着くまでは自らの愚かさに私は気づかなかった。

 

店についた。店内に客は一人もおらず、店員が奥で品出しをしている。

こんな時におでんを取るよう言いつけるのは少し申し訳なさを感じたが、

目的を果たさず帰えるわけにはいかない。

 

できる限り穏やかに声を上げ店員を呼びだした。

夜勤特有のゆっくりとした動きでレジそばまで来た。

私は定番メニューの大根・玉子・こんにゃく+α の編成を企んでいた。

 

しかし、

店員の一言は

私の希望を打ち砕いた。

 

「今日おでんは終わりました」

 

そう、おでんは既に終わっていたのだ。

 

よく考えればこんな夜更けにおでんをわざわざ買いに来るほど奇なる人間はいない。

売れ残り必至の商品をわざわざつくる必要はない。

時刻は日が変わるか変わるまいかの瀬戸際だったため、中華まんやフライヤーもなかった。

 

私は目に入ったパックのつみれ汁を買いそそくさと家を目指した。

 

外の異常な寒さに負けないほどうす暗く極寒の台所でつみれ汁を湯煎する最中

私はこの記事を書くことを思い立った。